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三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

仏教とは関係ないんですけどね!

仏教とは関係ないんですけどね!

先日の法要で禁断の質問がありました。

「何のために法事をするんで?」

いつもながら答えにくい質問です。

僧侶はみな答えにくいのではないでしょうか?

「お経をお唱えしたり、仏様にお供えしたりして、
功徳を積んでそれを、故人(亡くなった人)に振り向けます」

「亡くなった人はあの世で修行しています。
それに対してこちらで功徳を積んで、
応援してあげるものです。」

「もともと中国では、先祖を供養すると、
生きている人が守られて栄えるとも言います。」

「先祖供養したら功徳が返ってくると言うことです」

これで、大体納得していただけるんですが・・・
しかし、この後に言いにくいことを付け加えないといけません。

「もともとの仏教の教えとは関係ないんですけどね!」

「日本の民族信仰なんですよ」

こんなことはわざわざ言わなくてもいいことだと思うのですが、
多分、言わない人のほうが多いでしょう。

余計なことだと思いますが、つい、言ってしまいます。

言ってしまうと、仏教が日本の民俗信仰と
どう関わっているかという、もっと面倒な説明をせざるを得なくなり
当然のことながら、理解しがたい話になってしまいます。

「仏教と先祖供養は全く違う!」

という事実は多少は理解されていて、
現在の仏教を批判するときに

「もともとの仏教は~」

という言い方をされるので、知られてはいるのですが、
先祖供養をされる方からするとやはり

「先祖供養=仏教」

と思われているようです。

だから、仏教諸派で教義から葬儀・法事など必要なさそうに
思われる宗派であっても、もっともらしい理屈をつけて
他派と同じように葬儀を行うのは、当然のことと思われます。

ところで、真言宗は先祖供養とは別の意味で
複雑な問題があります。

先日の

「空海の誕生地は畿内?」

「弘法大師が眠られているのは奥の院ではない?」

では僧侶の方からも、その意見に対して異議がありました。

学問と信仰は違うという見解です。

私も立場上その考えは理解できます。

たとえば

「いろは歌は弘法大師作ではない」

学問上からは確かにそうかもしれません。
しかし、いろは歌の製作には

1、仏教的な素養
2、草書体に長けている
3、サンスクリットの知識

が必要とされています。

それに、見合う日本人と言えば「弘法大師以外にない」
「弘法大師が適当」というのが宗教的結論です。

一方で、

「奥の院に弘法大師がミイラ(即身仏)になっている」

になるとかなり怪しげです。

これについては以前に書いています。

結構微妙な問題ですが先ほどの「先祖供養=仏教」でない
と同じように「弘法大師信仰=真言宗の教え」ではありません。

某真言宗諸派が御宝号(南無大師遍照金剛ー弘法大師に帰依します)
念誦運動を行っていますが、弘法大師信仰自体を広めるのは
真言宗の教えから外れるのでは???
と思わざるを得ません。

弘法大師が生きているというのは、真言密教の教義から
導かれる結論で、実際にミイラなどで
存在するという話ではありません。

ミイラなどで存在するというような怪しげな話を広めてしまうと
真言宗の教えから全く離れてしまいます。

一方で「弘法大師信仰」というのは、実は真言教団にとっては
非常に重要な役割を果たしています。

まず「弘法大師信仰」が無かったら、真言宗自体にほとんど興味を
持って貰えないかもしれません。

さらに「弘法大師信仰」抜きで真言密教を学ぶと危険です!

真言に限らず密教は、教義自体よりも修行によって
得た境地を重視します。

それはどういうことか?

すなわち、その行者が思いついたことを真理と
錯覚しやすいのです。

この危険性は、少なからず新興宗教団体が問題を起こして
いることからも理解されるでしょう。

真言宗は「弘法大師信仰」があるがゆえに、
それが柵となって危険から解放されているといえます。

一方で、それゆえ足枷になっているのも事実かもしれません。
ちなみに弘法大師と同時代の伝教大師はその配下から、
教科書に載っているような日本の名僧のほとんどを輩出しています。

「生誕地と墓所の場所がこれまでと違っていたかもしれない」

ということで、騒動が起きるのは弘法大師ぐらいでしょう!

なんか愚痴のようにダラダラと思いつきで文章を
書いてしまいました。
まとまりのない内容で申し訳ありません。

最終更新日 2008年09月15日


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